
みなさんこんにちは。
フリーのwebクリエイターとして活動している、本好きエンジニアのけいです。
ブックログは年間100冊以上の本を読む僕が、面白かった本や皆さんに読んでほしいと思った本を紹介するブログです。
今回については、自分が正しいという思い込みを捨てるというテーマで「これも修行のうち。」という本の内容について紹介していきます。
人は承認欲を満たすため実態のないものを妄想する
僕たちはみんな承認欲をもっているので、自分に都合のいい妄想、判断を勝手に作り出し、それが正しいと思い込んでいます。
自分がもっている肩書や学歴、財産など、自分を他人に承認させるだけの価値があるもの持っていると思い込んでいる人は「自分は他人よりも優秀なんだ」「あの人よりも上の存在なんだ」と思っています。



人によってはなんの根拠もないのに、なぜか偉そうだったりもしますよね。
こうした状態は実態のない判断、つまり妄想によって自分を等身大以上の人間だと思い込んでいる、勘違いている状態です。
この勘違い、妄想は実態がないからこそ自由自在に思い描くことができていて、客観的には誇れる材料ではなくても「自分は偉いんだ」と言い張ることができます。
自分の判断も正しいと思い込んでいる
さきほど紹介した例で言うと、肩書とか学歴だったので身近な人で頭に思い浮かんだ方もいるかもしれませんね。
ただこれが実態のないもので自分の判断、考え方にも当てはまるとしたらどうでしょうか??
他人と意見がぶつかったとき、他人の行動に対して
例えば
「普通、新人だったら雑用は率先してやるべきなのに」とか、そういう考えも本来ならそれが絶対に正しい意見というのはありませんよね。
「新人でも忙しければ雑用は先輩でもやる」と思う人もいれば「忙しくても新人なら雑用はやるべき」と考える人もいて、このどちらも100%正しい意見というのは絶対に存在しないはずです。
他人と意見がぶつかって口論になってしまったときは、お互いに「自分の意見は絶対に正しい」という実体のないものに対して判断をしているからです。
自分の承認欲を満たせるような都合のいい判断・妄想に身を包んで「自分は結構すごいんだ」「正しいんだ」と思うのは仏教でいうと、傲慢とか自慢の「慢」と言われています。
相手の「慢」に自分の「慢」で張り合わない
相手が正しくないとか、自分の方が正しいとか、相手の慢に対して自分も慢で張りあおうとするのは仏教的には間違った考え方です。
心の中で相手を蔑んだり罵ったりしても自分の怒りが収まることはありませんし、相手も慢の心を持っていて相手が自分のことを絶対に正しいと判断している以上、相手が「悔い改めたり」「謝罪する」可能性はほぼありません。
相手の慢にこちらが慢で反応しても怒りが続くだけです。
小さく小さくを心がける
仏教ではこの対策として「小さく小さく」という心がけがあります。
小さくとは決して慢を膨らませず「自分が正しい」「自分が偉い」という思いを持たないことです。
仏教では「ただ理解をする」だけで、自分をいちいち判断しません。
上も下も判断をせず、けっして人の動向を追いかけず、不必要に判断しない。
自分を大きく見せようとも思わない。
ただクリアな心の目で
・相手を見つめ
・自分を見つめて
・せめて良い働きをしよう
・自分の生活を大事にしよう
と心がけることで、慢にとらわれず快適な人生を過ごすことができます。
まとめ
自分にはここまで「自分が正しいという思い込みを捨てる」というテーマでお話をしてきました。
みなさんいかがだったでしょうか??
今回のお話では
自分が正しいという判断は、自分の承認欲を満たして、相手よりも偉いと思い込むための勘違い・妄想にすぎない。
相手が間違っている、自分が正しいというのは仏教でいうと「慢」と呼び、相手の慢に対して自分も慢で張り合おうとするのは仏教的な考えで言うと間違った考え方。
「小さく小さく」を心がけ「自分が正しい」「自分が偉い」という思いを持たず、ただクリアな心の目で
相手を見つめ
自分を見つめて
せめて良い働きをしよう
自分の生活を大事にしよう
と考えることが大切。
というお話をしてきました。
感想
うまくまとめようと思ったのですが、難しいお話でした。
僕が今回の配信を通してお伝えしたかったのが特に他人と意見が合わなくてイライラしてしまったときやプライベートでも彼氏彼女、夫、奥さん、友達と喧嘩したときに自分が絶対に正しいという「慢」の心がありませんか??ということです。
すれ違いがあるときは、自分の意見が絶対に正しいと思い込むのではなく、どちらの考えが上とか下とか、正しいとか正しくないとか、そういう目線じゃなくて、相手のことも理解しようとすることが大切なんじゃないかなと思いました。